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20081114

投稿者: entasan @ 20:01

近年、MEMSやNEMSと呼ばれる微細な機械技術に対して政策的な投資と技術革新が行われており、これらの機器を応用して、温度や湿度、加速度、明度、風流量、音声、におい、味といった情報 ―五感情報― をセンシングし、数値化することが可能となった。もちろん、センシング技術自体は新しいものではない。身近な例では、自動ドアの開閉やトイレの水洗スイッチ、GPSを活用したカーナビゲーション、赤外線を利用した防犯ライト、あるいは、音波を用いた魚群探知やレーダーを用いた索敵技術などもこれに該当する。

近年、とりわけセンシングが取りざたされる理由については、大きく二つの理由があるものと考えている。一つは、ロボット産業をはじめとして、建築空間も含めた様々なものに対するロボティクス化の需要がセンシング技術の需要を押し上げていると考えられる。「ロボティクス(Robotics:ロボット工学)化」とは、そもそもは単純にロボットに関する関連工学分野のことを指し示す総称であったが、現在では「アクチュエーション(動作)」、「知能(人工知能)」、「知覚・認知」、「制御」の大きく4つの分野に大別でき、センシングはこの「知覚・認知」のために必要な要素技術となっている。つまり、手指の挙動や行動判断のために外的環境の様々な情報を利用するため、センシング技術が不可欠となる。

いうまでもなく、ロボティクスはいわゆるロボットのためだけの工学ではなくなってきている。家電製品や自動車、あるいはすでに建築空間でさえも、それを取り巻く環境から情報を得るために、人間の「五感」を模したセンサー機器を利用している。今この空間が暑いのか寒いのかを知るために温度センサーを使う、というようなことである。光や音、温度や湿度をセンシングする技術は古くからあったが、においや味といったものをセンシングする技術は現時点ではまだ開発途上にあるようだ。だがこれらの技術もかなり実用段階に近いものとなってきている。人間の五感を完全とはいかないまでも、かなりの部分まで模倣することが出来ていると考えて良いだろう。

身近なもので現在もっともロボティクス化が進んでいるものといえば、それはおそらく自動車だろう。もっとも機械工学の応用産業として自動車産業があり、この分野でロボティクス化が進むことに疑問の余地はない。エンジンの回転制御、効率的な燃費のための運転制御、カーナビゲーション、エアバッグ制御、衝突センサー、空調制御、現在は試験途中にあるITS(高度道路交通システム)などと枚挙に暇がない。自動車の中も一つの空間と考えれば、ここがもっともロボティクス化の進んだ「空間」だといって良いのかも知れない。なお、空間のロボティクス化については、建築分野では「空間知能化」あるいは「空間生命化」などといった文脈で進められている。

センシングが注目されているもう一つ理由は、マンマシンインターフェースがアンビエント化(環境への内在化・潜在化)する流れの中で、生活空間の様々な場面で人間の挙動や状態をセンシングすることが求められるようになってきていることが挙げられる。いわゆる、直感的なインターフェース、と呼ばれるようなものがおよそこれに当たる。たとえば昨今では、携帯型音楽プレーヤの代名詞となった「iPod」や、2006年に発売された任天堂のゲーム機「Wii」に代表されるように、タッチセンサーや加速度センサーを用いたコントロールシステムをもつ機器が数多く登場している。実験的な取り組みとしては、身振りや手振りによって空調や照明などをコントロールするようなものである。

先にも例として挙げたが、建築空間におけるセンシングというと、自動ドアや赤外線感知による照明スイッチなどが挙げられる。歩行や立ち止まり、通過といった人間の動作をセンシングし、これを制御に使うといった意味では、これらもユーザーインターフェースがアンビエント化された空間のひとつといっていいだろう。ただし、現代的な意味での「アンビエント化」とは、もう少し高度に情報化されたものが想定されている。その背景にあるのは、「ユビキタス・コンピューティング」と呼ばれる社会イメージへの反動があるのではないかと考えられる。

20世紀の終わりに、日本では「u-Japan構想」と呼ばれたユビキタス・コンピューティング化への流れがあった。「ユビキタス」とはラテン語で「いつでも、どこでも」を意味するUbiqueに語源を持ち、英語で「神は遍在する」を意味するUbiquitousに由来している。ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)に在籍していたマーク・ワイザー(1952-1999)が1991年に論文「The Computer for the 21st Century」の中で提唱した概念である。日本では坂村健(1951-)が1980年代に同じようなコンピューティングコンセプトを発表し、それ以降、TRONプロジェクトを進める中で行われたいくつかの実証実験の中で具現化されている。日本において、ユビキタス・コンピューティングの社会イメージは坂村が提唱しているTRONプロジェクトのものが標準となっているように思われる。

ユビキタス・コンピューティングとは、環境内に存在する様々なものがコンピュータを持ち、それらが互いに通信しあって一つの巨大な情報処理システムを形成している、というイメージである。坂村の提唱しているTRONプロジェクトにおいては、「ユビキタスコミュニケータ」を情報環境とのインターフェースに用いることが前提となっているといっていい。ユビキタスコミュニケータは無線ネットワーク機能を持ち、13.56MHz帯と2.45GHz帯のRFIDタグを読み取ることができる。その他にもBluetoothや赤外線通信、ZigBee、二次元バーコードなどにも対応している。確かに、現時点でこれだけの通信規格に対応していれば、情報インターフェース機器として優秀であることは間違いない。これを用いて上野や銀座で行われた、「自立移動支援プロジェクト」などをはじめとしたいくつかの実証実験は、社会にユビキタス・コンピューティングのイメージを広く啓蒙する一助となったのは間違いない。

確かに、21世紀初頭において、坂村の牽引したユビキタス・コンピューティングの概念が一世を風靡したことは間違いない。しかしながら、ユビキタス社会=人間が機械を使いこなさなければならない社会、というイメージ(と、いまひとつウケの悪い洗練されていないデザインと、いくつかの政治的な理由)によって一般人には馴染めず、産業界からも一歩引かれているというのが客観的な印象である。特にTRONプロジェクトに参加していない企業からの(あるいは参加している企業からも)反感があるのは、筆者がいくつかの研究プロジェクトの中で実際に見聞きした事実である。

ともあれ、このようなユビキタス・コンピューティング社会というビジョンの、しかも反省にも近い立場から「アンビエント」というビジョンが出てきたといっても過言ではない。人間の自然な動作や振る舞いをそのままコンピュータの制御に用いるというコンピューティングのビジョンは、常に新しいものに更新されていくコンピュータの使い方を覚えなければならないという強迫観念から、われわれを解放してくれると思わせるのかもしれない。それが本当かどうかはともかく、人との親和性を持ったコンピューティングビジョンとして受け入れられている。これからしばらくはこの「アンビエント・コンピューティング」が次世代コンピューティングビジョンのイニシアチブを取っていくのではないかと考えている。

アンビエント・コンピューティングは、先にも述べたようにセンシングが基盤にある。しかしながら、それが「自動ドア」と異なるのは、ユビキタスにネットワーク化された情報通信インフラに基づき、感知したデータをデータサーバで収集・管理する点であろう。また、得られたデータからは行動の特徴や環境状態の遷移が高度にマイニングされ、予測(シミュレーション)や機械の制御(フィードバック/フィードフォワード)に利用される。こういったアンビエントな情報技術によって高度にサポートされる環境にある人間は、それでも行為自体は普段の活動とさして変わりはないので、サポートされていることにさえ気がつかない、というのがアンビエント・コンピューティングの理想であろう。

20世紀末頃から今日に至るまで、世界はこれまでにないほど高度に情報化が進み、いわゆる情報弱者をうみ出した。確かにインターネットをブラウジングするためには、相応の金額のコンピュータと通信料を支払わなければならず、その上に小難しい操作方法を覚えねばならないので、こどもや高齢者を中心に情報格差を生み出した。もっとも原因はこれだけではなく、情報を探索する能力やノウハウの差にも原因があったに違いない。しかし、アンビエント・コンピューティングが目指す未来は、情報獲得のために主体的に動くといったような世界観とは異なり、人間が知らず知らずのうちに情報環境によって強化されるような世界観である。

ここで一つ例を挙げてみよう。リッツ・カールトンというホテルがある。東京には2007年に東京ミッドタウンの開業と同時にオープンした、世界的にも極めて高水準な顧客サービスを提供すること(と、高額な対価を請求されることで)で有名な、ラグジュアリー・ホテルである。有名な伝説によると、リッツ・カールトン・ニューヨークのドアマンは、馴染みの顧客だけではなく、初めて来館する顧客に対しても名前を呼んで応対することができるといわれている。もっとも、これは事前の入念な顧客情報のチェックと、長年培われた人間観察眼とのたまものであるに違いないが、来館する顧客はこのようなサービスに感動を覚えるのだという。リッツ・カールトンの信条は、ホテル業界の中でも極めてキメの細かなサービス精神に基づいて、顧客を(満足ではなく)「感動」させることにあるのだという。人を感動させることができるサービスこそが「ホスピタリティ」の高いサービスであると信じ、常にその実践のために動いている。しかし考えてみれば、このようなサービスも人間の手によって供されることにこそ感動の源泉があるのだろう。なぜならば、たとえばホテルのドアマンではなく、壁面にプロジェクションされるドアマンのアバターに「○○さん、ようこそいらっしゃいました」と言われても、コンピュータだからできて当たり前だと思ってしまい、場合によっては声もかけずに通りすぎていってしまうだろう。これではホスピタリティの高いサービスにはいたらない。

アンビエント・コンピューティングが目指すのは、アバターによるものではなく、ドアマンによるものであるに違いない。誰も彼もがリッツ・カールトン・ニューヨークのドアマンにはなれないけれども、同じような水準のサービスを提供したいと思うだろう。このとき、十分にアンビエント・コンピューティング環境が整っていれば、顧客の乗った車がホテルの車寄せに近づいてきたときにはそのナンバーから顧客情報がドアマンに伝達され、昨日配属されたばかりのドアマンであったとしても「○○さん、お待ちしておりました」とにこやかに迎えることができるだろう。さらには、顧客がフロントでチェックを済ませている間に、従業員全員に情報伝達が行き渡り、部屋の調度や環境は顧客好みに整えられているに違いない。

このようなビジョンを実現するためには、まずは現象をきちんと捉えるためのセンシング技術が高度に実現できていなければならず、その上で何が起こっているのかを予知するためのマイニング技術が整えられていなければならない。ここではセンシングとマイニングの両方をあわせて「モニタリング」と定義する。モニタリングという言葉は、それ自体が本来に「監視」という意味を持っているが、ここではその言葉上の意味とは別に、技術的な基盤の上に成り立っているコンピューティング社会像を指すものである。

社会は間違いなく「モニタリング社会」に向かいつつある。これまで述べてきたように、社会が単にアンビエント・コンピューティングに向かっていると言うことだけではなく、プレ・アンビエントな社会(つまり現在の社会)では様々なサービスが個人に特化されたアウトプットを提供することに心を砕いてきたところに端を発している。Amazon.comで買い物をする度につい衝動買いしてしまいそうになる商品を勧められてしまうのも、ウェブをブラウジングしていると関連する記事のページへのリンクが尽きないのも、それらすべてが個人情報と興味関心とのマッチングに基づいたデータマイニングの成果である。われわれはただ暗黙のうちにこれらのサービスを便利なものとして日々享受している。確かに、個人情報を差し出さなければならないという交換条件はあるが、逆に、便利なサービスを受けるために自らすすんで個人情報を差し出す ―すなわち、自ら望んで監視対象になる― という逆転がいつの間にか起こっているといっていいだろう。

Amazon.comのようなサービスは、まだそのサービスがわれわれの目に見えるだけましな方だろう。携帯電話の電波は常に携帯電話キャリアのアンテナとつながっており、キャリアからわれわれの居場所は常に丸見えである。SuicaやPasmoを使って移動すれば(あるいはその前の磁気カード定期券だった頃でさえ)、鉄道会社にわれわれの行動が筒抜けになる。こういったことはその情報が間違いなくモニタリングされているにもかかわらず、サービスとしてリターンされないぶん、モニタリングされていると言うことが意識に上ることが少ない。ある意味では完全にアンビエントな手段だと言っていいだろう。このようなモニタリング社会がすべての点において好ましいものかどうかは疑わしいが、その点は常に精査を重ねるとして、社会動向としてこのような流れにあることは間違いない。そしてこの流れは今後ますます多様化し、われわれの生活を覆っていくだろう。


翻って、本論文は、このようにこれからの社会ビジョンの一つであるアンビエント・コンピューティング社会を視野に入れている。種々の手法によって、人間や空間、環境など様々な対象をモニタリングする社会である。われわれは監視され、管理されると言うことと交換条件に、便利で安全な生活を享受する。本論文中で取り上げている手法や場面といったものは、あくまでまだその片鱗でしかない。様々な技術が今後さらに発展してゆく中で、手法は洗練され、いくつかのものは実際に社会に実装されてゆくだろう。

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